体罰基準の見直し(教育再生会議第一次報告)に我思う
20年前、教員採用試験を受ける際、教育に関する法令を多少学んだ。その中で、学校教育法や学校教育法施行規則に体罰禁止が記述されていたことを思い出す今日この頃である。
そして、昨日、教育再生会議は、7つの提言と併せて提出した4つの緊急対応の中に「体罰に関する通知の見直し」を求めた。「教員が毅然とした態度を示すことで規律ある学校を実現するのだ」というのだ。現実的には、全面的に教師による殴る蹴るが堂々と日の目を見ることはないだろうが、基準が論議を呼びそうである。
その後の私のアドラー心理学の学びに間違いがなければ、罰とは、子どもたちの不適切な行動に対して、不適切に応える態度だと理解している。
例えば、宿題を忘れた生徒に、廊下に立たせるのは、罰である。なぜなら、適切な行動を教えるのではなく、合理的でない辛さを味あわせることで、適切な行動をさせようと態度であるからだ。そもそも、宿題を忘れたことで、それによって生じる自身に及ぶ責任を負うことで、宿題をすることの必要性を知らすことが理想である。
また、罰を法律で認めることで、果たして、どの生徒にも公平に実行されるか怪しいところだ。罰が実行されるには、教師と生徒の力関係がものをいう。教師の力をしのぐ生徒であれば、生徒は罰に屈することはないだろう。非常に不公平感がある。弱いものいじめの感もある。法的に全生徒に罰を受けさせるには、警察のような法の実行部隊が必要になるかもしれない。これが、規律ある学校を実現することだとしたら恐ろしさを感じる。もう教育のレベルではない。
そもそも、罰は、罰するものと罰されるものの上下関係の上に成り立つ。罰は、必然的にエスカレートする。慣れてくると効き目がなくなるので、更に厳しい罰を無限に与え続けることにもなる。そして、罰は人間関係を悪くする。つまり教師と生徒の人間関係を壊す可能性がある。人間関係が壊れたところで、教育が行われるとは信じがたい。罰では正しい方法は学ぶことはできない。等、いくつかのリスクがある。
まだ、見直しが求められた段階なので、詳細はこれからの議論によるのだろうが、是非、教育、心理学の有識者による議論を期待したい。
そもそも、規律ある学校は誰のためにつくるのか。教師に体罰という武器(手段)を与えることの前に、身体を張って生徒を育む教師の育成が望まれる。武器(手段)は人を幸せにも不幸にもできる。そして、その鍵を握るのが、武器(手段)を使う人間(教師)にほかならないのだから・・・。
胃上食堂

