日本語とフランス語
40年ぶりに歌声喫茶回顧版に参加した。平均年齢60くらいの男女が集まり、
いっぱい飲み屋を3時間借り切り、一人3000円の会費で、懐かしいあのころの
歌を肩を組んで歌うといった趣向である。
カチューシャ、ステンカラージン、ヴォルガの舟歌など、当時の社会情勢を
反映してか、ロシア民謡が結構歌われた。吉永小百合さんの歌も何曲か歌われ
た。男たちは高い音が出なくなっていたが、女性陣からは清らな声が流れてき
た。それぞれに、熱い思い出の象徴であろう思い入れのある一曲があり、歌は、
時空を切り裂いて、あのころの若々しい痛みを、歓喜を運んでくれる。その一
曲を歌いために、遠くから来る人もいるらしかった。
私は、「サクランボの咲くころ」をリクエストしたが、そのときあらためて
フランス語と日本語の違い、さらにはフランス人と日本人の感性の違いに気が
ついた。それは、たとえば川端康成の「伊豆の踊り子」をフランス語訳で読ん
だときに感じた、日本語とフランス語の違い、両国人の感性の違い、それに起
因する翻訳の難しさに通じるものだった。
「Le temps de series」,これが「サクランボの咲くころ」のフランス語のオリ
ジナル・タイトルである。「Danseuse d’Izu」これが「伊豆の踊り子」のフラン
ス語訳である。前者はサクランボ、桜に対する日仏両国の文化の違い、後者は、
踊り子とダンサーにまつわるイメージの違い、超えようのない感性と文化の違
いが感じられる。
善と悪についても、文化的な背景が違うと、その基準は相当の隔たりがあっ
たりする。言葉によるコミュニケーションの難しさは、国際関係においては、
そこら辺からじわじわと平和を蝕んでいるのかもしれない。
担当:関口

