「買い物」(後編)
○前回のあらすじ
つい最近、衝撃的な話をとある学習塾の先生から聞いたのだ。
「買い物」にまつわる話である。
大手中学受験専門の学習塾に務めるF先生から聞いた話である。
新小学5年生の国語の授業での出来事だ。
その学習塾では小学4年生の段階でも相当の長い文章を授業中に扱う。
テキストを初めて見たときには驚いた。本当に長い。とても90分の授
業で終わりそうにない。
しかも、必ず「音読」を生徒にさせなければならないらしい。音読だけ
で20分くらいかかってしまうそうだ。
問題をクラスのレベルに応じて上手に取捨選択していかないと、授業の
指導効果は半減してしまう。テキストの問題には記述が多い。もちろん、
小4においても、である。
この学習塾は難関国私立中学へ抜群の合格実績を誇っているのだが、そ
の強さの一端を垣間見た気がした。
さて、そんな長文の物語文に出てきたある言葉が「驚嘆の事実」の発端
だった。
小5と言ってもついこの前までは小学4年生。彼らが使うには難しい言
葉も当然たくさんある。
「誠心誠意」。
『まごころをもって物事を行うこと。(大辞林)』という意味のその言葉
がちょっと難しかったらしい。
F先生は身近な例を挙げ、説明しようとした。
「ほら、よく買い物とか行くと、お店に『誠心誠意対応させていただき
ます』とか貼ってない?」
クラスのみんなに問いかけた。総勢15名。その中の一人の男の子、潤
が小さいながらも高音のよく通る声で、そう、たとえるなら、かの名作
アニメ、『ドラえもん』に出てくる『スネ夫』口調でこう言い放った。
「オレ、買い物行ったことないから分かんない」
その瞬間、教室は一瞬ピキンと凍りついたらしい。「カイモノニイッタ
コトガナイ」。
その言葉の意味を真っ先に理解したのは生徒だった。潤のことをよく知
る彰久が笑いながら言う。
「あぁ、コイツんち、すげぇ金持ちだからな」
はじめてのおつかいどころの騒ぎではない。小5になろうとしているの
に潤は買い物の経験がないのだ。
しかも、である。
この場合、「一人で」という限定はどこにもない。彼は「買い物に」行
ったことがないのだ。彰久の「金持ち」という言葉と合わせて類推する。
導き出される答えは一つ。
彼の家庭は買い物のために出かけることはないのだ。潤にその記憶がな
いとすれば、少なくとも彼が物心ついたときから今までずっと・・・。
潤は母親と一緒に買い物へ行った経験もないということだ。
必要なものは、全て取り寄せか、しかるべき人が買いに行くのか。さす
がのF先生もそこまで突っ込んだことは聞かなかった。
僕も多くの生徒を教えたが、買い物へ行かない家庭というのは初めて耳
にした。
最近の入試では「日常の感覚」を問われるものも増えてきている。たと
えば、漢字なら「消印」。非常に簡単な漢字が並ぶこの熟語が意外と読め
なかったりする。
社会においては「バリアフリー」や「環境問題」など、毎年、身近な話
題が取り上げられる。
買い物に行ったことがない潤はこのような問題を机上の知識だけで解決
しなければならない。
と、無理やり入試に絡めて書いてみたが、要するに、一般庶民のやっか
みである。一度でいいから、買い物に行かなくてすむような大金持ちの
暮らしを経験してみたいものである。
(登場する生徒名は全て仮名です。)
合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ
荒木 崇(チーフ・コンサルタント)
http://www.management-brain.co.jp/

