教室にはよく電話がかかってくる。やはり保護者の方からかかってくる割合
が多い。欠席連絡やお子さんの学習相談などが主な内容だ。
その日も、いつものような一日で、いつものように授業の教材準備をしてい
たときに、いつものように職員室にある5台の電話が鳴った。
電話に出ようと手を伸ばす。入社研修のときに『電話は3コール以内で出ま
しょう』と教わった。3コールで出られなかったときには、第一声に『お待
たせしました』と付けなさい、とも言われた。
ただし、こちらの電話はコールされていても、先方の電話で発信音が鳴って
いるとは限らない。だから、1コールで出るのではなく、2コールが丁度い
い、というようなことも習った。
「電話を出る」という行為だけでこれだけの内容である。一体どんだけのこ
とを覚えなきゃならんのだと、学生時代、ロクに勉強なんぞしなかった僕は
激烈な不安を感じたのを覚えている。
受話器に手をかける手前でコール音が止んだ。「プルルルル」と1コールが
終わり、2コール目の「プ」まで鳴った。
「はい。お電話ありがとうございます・・・」と僕の28倍はさわやかな
口調で事務スタッフのTさんが電話に出た。なるべく早く電話に出ようと
心がけていたのだが、たいていTさんのほうが早く電話を取る。
心のどこかにためらいがあるのだろうか。小心者の性なのか・・・。
日常の、そこらへんにどこにでも転がっているような場面で、案外、人は
悩むのかもしれない。
「荒木先生、真子ちゃんのお母さんからです」。Tさんが声をかける。
結局、僕宛の電話であった。僕があと少し早く電話をとっていれば、Tさ
んを煩わせなくてすんだということか。でも、まぁ、それは結果論にすぎ
ない。
「もしもし、荒木ですぅ」
ちょっとハイトーンに、そして、相当さわやかに。そんなつもりで保留を
解除する。Tさんとの差は26倍に縮まったかもしれない。
「あっ、どうも荒木先生、真子がいつもお世話になっております」
「いいえ、相変わらず、頑張ってますよ。昨日も漢字テスト満点でした」
一体、どんな相談なのだろうかと推測する。真子(中学受験5年)は僕の個
人担当である。お母さんと面談もするし、何かあったときの窓口は僕だ。
国語のこと?算数のこと?どちらかといえば、苦手な算数のことだろうか。
昨日の授業では本人に変わった様子はなかった。何か見落としたか・・・。
「来月は真子の誕生日なんですけど、『荒木先生は授業中、いつも誕生月の
人を一番最初に当てるから、今からドキドキする』ってうちでも大騒ぎなん
ですよぉ」
「そんなこと、話してるんですか。じゃぁ、来月はホントに大活躍してもら
わなきゃいけませんね!」
冗談で応じるが、お母さんが電話をかけてきた意図が全く見えない。たいて
いすぐに本題に入るのだが。
「それで、荒木先生、今日はちょっとお尋ねしたいことがありまして」
どうやら、ようやく本題である。その内容に少なからず驚いた。
○後編へ続く。
(登場する生徒名は全て仮名です。)