【記事】<新・学歴社会>公立高校入試 進む競争
朝日新聞(2008年11/10)より以下抜粋
○公立高の入試といえば、どこを受けるにしても、全県共通の問
題を解くというのが決まったスタイルだった。
○東京都教育委員会がこれをやめたのは01年入試だった。各校
の独自出題を認め、まず日比谷高が国語、数学、英語の3教科で
導入。国立、戸山、八王子東など12の進学校が後を追った。
○「『勉強が忙しい日本の中学生は学校生活を楽しんでいるのか』
という米国の中学生の問いかけに、自分の考えを30~40語の
英文で書きなさい」「『敵の計略をカンパ』のカンパを漢字で」。
独自入試の出題例だ。
○都教委が用意する一般問題の長文英語の単語数は1千語前後だ
が、独自入試では1・5~2倍程度に増える。中学の学習内容を
踏み出してはいないが、かなりの理解力、応用力が問われる。
「独自入試対策」を掲げる学習塾も増えている。
○独自入試の高校の目的は「高い学力をもつ生徒の選抜」だ。一
般の共通問題だと、多くの受験生が高得点で固まる。ケアレスミ
スが合否の分かれ目になりがちで、高いレベルの学力差がわかり
にくい――という考えがある。
○都立高の制度改変の背景には、「平等」を強調した教育への後
悔がある。都教委の内部には、かつての入試制度によって私学に
人気を奪われた、という思いが強い。都立の普通科高校の入試に
は、67~81年、「学校群」という制度があった。数ある学校
の中から一つを選んで出願するのではなく、同じ学区の学校を2
~4校単位のグループにして、全体の合格枠に入った生徒の試験
の成績などに応じて均等に振り分けるやり方だ。「入試を目的と
する教育は行わない」。都の教育長がこんな通達を出すほど、進
学指導がタブー視された時代だった。
○「15の春は泣かせない」という言葉のもと、高校に行けない
生徒をできるだけ生まないよう、各地で次々と学校が新設された。
そして、東京のように複数の学校を一緒にして募集する「総合選
抜」と呼ばれる制度が広がる。一部ででも制度を導入した都府県
は、80年前後には14程度に上ったとされる。各校間の「序列
感」は大幅に薄まった。しかし一方で、高い学力レベルの集団が
競い合い、学力を伸ばし合う機会も減った。都市部では、経済的
なゆとりがある家庭の受験生が、どんどん私立へ流れていった。
○教育情報会社の大学通信によると、58年時点では、東大合格
者数の上位20位に公立高が15校入っていた。そのうち、都立
は9校。それが、今春には岡崎(愛知)、県浦和(埼玉)、宇都
宮(栃木)の3校にまで減っている。都立は一つも入っていない。
○時を経ていま、総合選抜制が残るのは兵庫県と京都府の一部の
学区だけになった。兵庫では来春の入試を限りに全廃されること
が決まっている。
○比較的安い学費で高い進学状況を提供する――。こんな公立高
校の「復権」は、受験生と保護者に選択肢を増やしているように
見える。都立日比谷高も60年代に200人近くいた東大合格者
が減り続け、93年には1人になったが、制度改変の後に再び増
加に転じ、07年には28人にまで増えた。
○しかし、そこに危うさを見る向きもある。学力に長じた生徒が
特定の高校に偏れば、その他の学校の進学実績は伸び悩む。少子
化によってかねて高校の統廃合は進んでおり、高校入試制度の研
究を長年続けている聖学院大学の小川洋教授(教育学)は「学校
間の序列があらわになれば、『生徒が集められない学校』はいっ
そう苦しい状況に追い込まれかねない」と危ぶむ。「格差」の問
題も頭をもたげる。「限られた一部の学校を目指す受験競争が激
しくなれば、子どもの教育にどれだけお金がかけられるか、保護
者の社会的・経済的な格差が進学先に響いてくる」「そうした
『勝者』だけに、恵まれた環境を与えてしまうことになる」「平
等」と「競争」の間を揺れ動く公教育は、まだ確たる答えを示せ
ないでいる。(宮本茂頼)
*私からのコメント
◇2002年の教育改革を私は、このメルマガを通じて、徹底的
に批判してきた。それは、ゆとり教育で学力低下問題が生まれる
ということで、批判したのではない。ゆとり教育を掲げて、全員
が100点を取れるようにするという大義名分のインチキさを指
摘して、ゆとり教育は、エリート教育を行うための罠だと批判し
たのだ。
◇学習指導要領の性格付けをマキシマムスタンダードからミニマ
ムスタンダードにして、教育内容の自由度を確保し、公立学校の
守るべきインフラ(=学習指導要領)を低くして、そのインフラ
以上に学びたければ、子どもの能力に応じて、学習を行うという
ことにしたのだ。
◇当然、近代の教育は、私事性を色濃く反映するから、経済的余
裕のある家庭や学歴志向の高い家庭の子どもは(所得層の高い家
庭が多い)、学校外で教育内容の補填が行われるようになる。そ
の結果、経済格差が、明確に学力格差を生む結果になる(従来か
ら経済格差が学力格差を生むことは分かっていた)。これが、
2002年の教育改革の狙いだ。
◇ゆとり教育が、学力低下問題を引き起こし、そして経済格差が
学力格差を生んだのだという流れを作った。この間の学力低下問
題は、日本の教育界の重要問題になってしまった。この学力低下
問題キャンペーンは、近年にない大成功の宣伝になった。この宣
伝は、こんなゆとり教育や学習内容ではまずいということをすべ
ての国民に知らしめ、日教組の抵抗力を殺いで、学力偏重を容認
する環境を作ったのだ。その間に静かに進行したのが、入試にお
ける学力偏重傾向だ。
◇そして、この入試における学力偏重傾向をさらに推進させたの
が、学校の生徒評価に絶対評価を導入することだったのだ。相対
評価から絶対評価に変更しておいて、入試前の選抜資料には、生
徒間の成績格差を生まないようにして(絶対評価だと評点格差が
非常に小さくなる)、入試の得点力で合否を決めるようにしたの
だ。成績的に格差が出ないので、入試で格差が出るようにしなけ
れば、合否判定が難しいからだ。
◇今日取り上げた記事にあるように、高校入試は、個性の多様化
で様々な入試形態を生んだようでいて、全く逆に学力重視の入試
傾向を示した。見た目の入試形態は、多様化していても、その底
流に流れているものは、変わっていない学力重視なのだ。
◇それは、学校制度の本質を考えてみれば、明白だ。学校制度は、
子ども達を管理し、選抜して、優秀な子どもを学校制度を通じて
吸い上げ、国家の行政に関与させようとする制度なのだ。だから、
高校進学が、95%超えても、高校全入が実施されないのだ。
◇だから、学校制度と教育を分けて考えないと、意味はない。学
校制度は、教育を子ども達に施して、子ども達全員を立派な大人
にするということが第一義の目的ではなく、子ども達を管理し、
優秀な子どもとそうでない子どもに分ける分割線の役割を果たす
のが、本来の役割だ。
◇記事の中にある批判は、だから学校制度を考える際には、全く
意味を持たない。昔から学力格差は、経済格差が原因だったのだ。
学校制度は、親の経済力や文化力の再生産装置だと言ってもいい
ようなものだ。学校序列が顕わになっても、学校制度の本質から
見れば、問題はない。生徒の集まらない学校がつぶれても、制度
は順調に機能するからだ。
◇学校制度の問題と子どもの教育問題を分けて考えることが重要
なのだ。自分の子どもは、自分で考えて教育していくことだ。そ
のためには学校を手段として活用しよう。学校進学を目的にして
はいけない。もしそういう風に考えてしまえば、学校制度の罠に
嵌るだけだ。
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◇◇◇Global Thinking and Local Acting◇◇◇
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