集団の論理と個人の論理の融合が必要だ!
【記事】茶髪の中3女子、教諭にはさみ押し当てる「卒業式出たい」
産経新聞(2009年3/15)より以下抜粋
○埼玉県警越谷署は14日、暴力行為処罰法違反の現行犯で、
越谷市、同市立中学校3年の女子生徒(15)を逮捕した。
○越谷署の調べでは、女子生徒は14日午前10時10分ごろ、
同校の保健室で、机の上にあった分解できるはさみの片刃ずつ
を両手に持ち、男性教諭(52)の背後から刃の部分を両肩に
押し当てた。女子生徒は窓から逃げ出したが、別の教諭らに取
り押さえられた。
○越谷署の調べでは、事件当日、同校は卒業式。午前9時45
分ごろ、女子生徒が遅刻して体育館に現れたところ、男性教諭
に「スカートの丈が短い。髪の毛が茶髪だ」と指摘され、保健
室で注意を受けていた。越谷署の調べに対し、女子生徒は「卒
業式に出席させてほしかった」と供述しているという。
*私からのコメント
◇今回の記事は、その背景が、まったく分からないので、具体
的な意見は差し控えたい。しかし、この記事を見て、私は、子
どもと大人の間にルールに対する共通認識がまったくないのか
もしれないという疑念をもった。
◇戦後教育は、国家の論理を優先する戦前の教育を否定して、
個人の尊重を中心に据えたが、その時に、集団の論理まで否定
してしまった感がある。もっと言えば、個人の論理を強調する
あまり、集団の論理を捨ててしまって、個性の尊重だけに重き
を置いた。
◇その結果、日本にあった集団主義に根ざした個人の論理が消
されてしまった。世間という言葉が、死語になりかけていると
言うことは、そういうことだ。世間=公共性を基準にした個人
の行動規範を学校で教えることは、非常に難しい状況になって
しまったのだ。
◇たとえば、この記事の事件だ。卒業式は、集団の論理で行わ
れる通過儀礼だから、個人の論理が優先されるものではない。
生徒一人ひとりの卒業式だと言われるかもしれないが、それは、
心情的な問題で、本質的には、中学校という学校制度の中で行
われる、「卒業」という承認式だ。だから、集団の論理が、支
配する時空間なのだ。
◇このことを、しっかり私たちは、子ども達に教えることなの
だ。そういう時空間だということを知った上で、そういう集団
の論理に則った個人の行動をすることを教えることだ。
◇私は、集団の論理だけを教えろと言っているのではない。集
団の論理を知らなければ、個人の論理を発揮できないというこ
とを子ども達に教えるべきだと言っているのだ。
◇たとえば、記事にあった服装の問題も集団の論理と個人の論
理の問題だ。私たち大人は、どうしても見た目を重視する傾向
がある(集団の論理の尊重)。人間は中身だと思っていても、
その中身は、外に現れると考えているところがあって、見た目
=中身という図式を案外私たちは、信じているところがある。
◇それに対して、思春期を迎えた子どもたちは、どうかという
と、見た目を自己表現の手段(個性の尊重)としている節もあ
るし、子どもたちの共通言語にしている節もある。自分自身
の中身を見た目が現していると言うよりも、自己主張の手段だ
と思っているところがある(個人の論理の尊重)。
◇私たち大人が、教えなければならないのは、仲間内だけに通
用する論理(=個人の論理)では、生きていけないということ
だ。仲間内を越えた論理(集団の論理)を習得して初めて、個
人の論理が生きることを教えることだ。
◇だから、バランスが大切なのだ。戦後教育の総決算は、集団
主義と個人主義を融合するものでなければならない。集団の論
理だけの復権ではいけないのだ。言うまでもないが、国家の論
理の復権でもない。
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◇◇◇Global Thinking and Local Acting◇◇◇
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